Q. 日本の医療現場で働いた経験を振り返って、日本の看護で好きなところはありますか?
チームで看護体制を組むところです。フィリピンでは、通常一人の看護師が多数の患者さんを担当します。日本では、複数人の看護師がチーム体制を組んでいるので、患者さんの情報を共有して、チームワークを発揮していることが印象的でした。私も同じチームの同僚に助けられました。
Q. フィリピンと日本の病院・看護で異なる部分はありましたか?
日本は高齢者が多いと聞いてはいましたが、実際に現場に配属されたときは衝撃的でした。日本では完治する見込みの低い高齢患者さんも長期入院していて、フィリピンとの違いに驚きました。
Q. どのように、EPAプログラムを知ったのですか?
2004年にフィリピンで看護師になりました。海外で看護師として働きたいと強く思い、米国の看護師免許も取得しました。ただリーマンショックなどの影響から世界経済が悪化したため米国行きを断念しました。(注:当時米国は、フィリピンからの看護師受け入れを一時的に凍結していた。)そんなとき、ニュースを通じてEPAについて知りました。2010年だったと思います。
Q. いつごろから日本の病院で働き始めたのですか?
2010年11月にフィリピンで働いていた病院を退職し、渡日前の日本語研修に参加しました。翌年5月にEPA第三期生として来日しました。豊田市での6ヶ月の研修を経て、2011年11月から京都の病院で働き始めました。勤務先では午前中だけ勤務し、午後は国家試験に向けて勉強をする毎日でした。言語が異なるため、試験問題を理解するのに時間がかかりました。ですが、看護行為そのものは、日本語でも英語でも共通している部分があるので、次第に話している内容も分かるようになりました。
また私の場合は、フィリピンの看護学校で教えていたこともあり、比較的、試験に強かったのだと思います。
Q. 合格後の経験はどうでしたか?
2回目の挑戦だった2013年、国家試験に合格しました。試験前はあくまでもサポート役でした。合格後は日本人の看護師と同等の立場で働くことになり、言語の壁を強く実感しました。
Q. 具体的にどんなことが大変でしたか?
例えば、看護記録の記入ですが、手書きでもコンピューターでも日本語で記入するので、非常に難しかったです。また看護に重要な微妙な言語の表現を正確に扱うことにも苦労しました。
患者さんをしっかり観察し看護するためには、目に見える患者さんの症状だけでなく、コミュニケーションを通じて様々な情報を分析・アセスメントする必要があります。私の場合は、日本語の読み書きは得意でしたが、聞き取りが課題でした。
特に京都の言葉は教科書で習った日本語と異なる場合があり、患者さんの本音を理解するのに非常に苦労しました。
Q. それは難しそうですね。様々な事情から正直に症状を言いたくない患者さんもいたのではないでしょうか?
はい。そういった時は同じチームに所属している同僚か上司に助けを求めるしかありませんでした。また病院スタッフが意見交換する「カンファレンス」では、アセスメントや自分の考えを正確に表現できず、同僚に助けてもらう場面が多くありました。
もちろん病院の皆さんはずっと優しく助けてくれました。ですが、同等条件で働いているのに助けられている自分の状態をみて、「彼らの重荷になってしまっていないか」と考え込んでしまうときがありました。
途中からは集中治療室(ICU)担当になったので、言葉の問題からはだいぶ解放されました。
Q. 日本の病院に勤めて、印象に残った患者さんはいますか?
忘れられない患者さんがいます。ある時、私がフィリピン人であると知ってから、看護をするたびに彼が謝罪をするようになりました。「なぜ謝っているのですか」と聞くと、彼はこう話してくれました。
「戦時中、日本兵があなた方の同胞にしたことを謝っているのです」戦争が終わったのは遠い昔のことと思っていましたが、彼のような日本人が過去を忘れずに謝罪をしてくれたことは、大変ありがたいことだと感じました。
Q. ホームシックに悩むときはありましたか?
フィリピン文化は伝統的に「家族の絆」が強いことで知られています。私の家族もとても仲が良いため、もし家族の誰かが私と一緒に日本に住んでいたら、もう少し長く滞在できたかもしれないと思います。
寂しさを克服するため、神様にお祈りをしたり、散歩で体を動かしたり、そして勉強に没頭しました。仕事が終わった後にレストランやショッピングモールで食事をしながら勉強を続けました。週に数回は、夜中2時過ぎまで勉強していました。夜中でも女性が街を歩ける環境に日本の治安の良さを感じました。
Q. EPA制度で改善できれば良いと思う点はありますか?
きちんと日本の現実を知ってもらう機会を作り、納得した上で応募・入国する制度を整えると良いのではないでしょうか。
国によって、看護文化の違いはあって良いと思います。ただ、全く情報がない状態で日本に来ると、その分カルチャーショックが大きくなってしまいます。海外から来る看護師も心の準備さえできれば新しい環境に順応できるでしょう。
Q. 帰国後の活躍について教えてください。
2014年にフィリピンへ一時帰国した時は、もう一度日本に戻り、長崎大学の修士課程で研究するつもりでした。しかし、家族に強く説得され、フィリピンに残ると決意しました。「海外就労しているフィリピン人たちを助けたい」と思い、2014年から2018年までフィリピンで法科大学院(ロースクール)に通いました。ロースクール在学中だった2016年2月からは、ケソン州ドロレス市議会の職員として勤務しています。責任のある仕事なので、ロースクールでの勉強と両立させるのは非常に大変でした。しかし、日本の仕事で鍛えられたおかげで、この困難も克服できました。2020年、晴れて弁護士資格を取得することができました。
Q. 「弁護士」という別業種でご活躍されているわけですが、日本での経験が今に活きていると思いますか?
これまでの道のりは決して楽ではありませんでしたが、大きな山を登るのと同様に、最高の景色を頂上で見るためには、真摯に神に祈りを捧げながら、一生懸命努力しなければらないのだと痛感しています。
日本の生活を通じて、文化や天候の違い、コミュニケーションの壁を体験し、精神的に大きく成長できました。海外での一人暮らしを経験したことで、自立心も目覚めました。両親や親戚には「私が強い女性になれたのは、日本での経験があったから」と伝えています。
#EPA看護師 #EPAnurse #外国人看護師 #ForiegnNursesJapan
#フィリピン人看護師 #FilipinoNurse
(2022.02.12インタビュー)